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激レアさん!富士そば創業者、1回しか食べたことないのに事業成功


名代 富士そば

2018年7月1日放送のテレビ朝日系列『激レアさんを連れてきた。』のゲストは、人生で1回しか蕎麦を食べたことがなかったのに、『名代 富士そば』を創業して大成功した丹道夫(タンミチオ)さんです。

東京都を中心に、関東地方で事業展開している24時間営業の立ち食い蕎麦屋『富士そば』は、首都圏に住む方なら、利用したことがなくても、誰もが知っている存在でしょう。

たまにテレビにも登場するので、他の地域にお住まいの方も、名前くらいは知っていると思います。

丹道夫さんは、その『富士そば』を経営する『ダイタングループ』の創業者にして会長なのです。

しかし、成功するまでに、紆余曲折の人生を歩んできました。

丹道夫ってどんな人?

丹道夫さんのプロフィールは、次のとおりです。

【名前】 丹道夫(たんみちお)

【生年月日】 1935年12月15日

【出身地】 愛媛県西条市

【趣味・特技】 作詞

【高校】 愛媛県立西条高等学校(定時制)卒業

【最終学歴】 東京栄養食糧専門学校卒業

【職業】 『名代 富士そば』の創業者、『ダイタングループ』の会長

丹道夫さんは、『名代 富士そば』の創業者です。

数々の職業に就きながらもすぐに退職することを繰り返し、東京進出4回目にして、24時間営業の立ち食い蕎麦屋で大成功しました。

『富士そば』大成功の軌跡

愛知県名古屋市で生まれた丹道夫さんですが、生まれてすぐに父親が亡くなり、5歳の時に母親・ウメさんが故郷の愛媛県で再婚したので、山の中で育ちました。

母親の再婚相手は、山林を所有して材木を商う山師であり、借家も10軒所有する財力を持ち、しかも、幼い丹道夫さんにも優しかったそうです。

しかし、弟が生まれてから態度が激変し、重労働させるのに丹道夫さんのためにお金は使わず、それどころか、病弱だった母親の治療費さえ出しませんでした。

そんな状況でも、母親は高校に行かせてくれましたが、すぐに辞めてしまい、義父のすすめで働き始めた八百屋も辞め、ガソリンスタンドも薄給を理由に辞め、すべて長続きしません。

そんな時、中学校の恩師に誘われ、東京都人形町の着物問屋の面接を受けると、その帰りに初めて蕎麦を食べて感動します。

結局、面接に落ちてしまい、1回目の東京進出は失敗してしまいましたが、その時初めて食べた蕎麦が、その後の人生を大きく好転させたのです。

帰郷すると、水力発電所の建設のために多くの労働者で賑わう状況で、丹道夫さんは、三輪自動車の運転手の仕事に就きましたが、水力発電所の完成と共に仕事も尻すぼみとなって行きました。

そして、「再び東京で挑戦したい」と思うようになり、15歳で2回目の東京進出を試みたのです。

何の当てもなく東京へ行く途中、電車の中で埼玉県大宮市に住む女子大生に声を掛けられ、「なにかあったら連絡しなさい」と、住所と電話番号が書かれた紙を渡されましたが、大宮に着いてから電話を掛けようとすると、間違えて常磐線に乗ってしまい、福島県に行ってしまいます。

これでお金が足りなくなった丹道夫さんは、仕方なく福島県で炭鉱の仕事に就きました。

トロッコで砂利を運ぶだけの仕事は、精神的に開放されて楽しく、一生懸命働きましたが、炭鉱が完成して仕事がなくなります。

その後、印刷所に就職したものの、トコジラミ(南京虫)に噛まれて酷くなり、愛媛県に帰郷しました。

帰郷して、愛媛県立西条高等学校定時制に転入・卒業しましたが、高校卒業後に働く場所がないということで、3回目の東京進出を果たします。

今度は、寮があって授業料が安いという理由で、料理に興味がないのに『東京栄養食糧専門学校』に入学し、2年後に栄養士の資格を取得して、世田谷区にあった大病院に就職しますが、上司に「公務員は遅れず、休まず、仕事せず」と注意されて退職しました。

意外にも本人はやる気満々の状態で、これからという時でしたが、ここで義父の訃報が入り、帰郷を余儀なくされたのです。

帰郷後、愛媛県西条市に引っ越しし、料理学校を開くも、東京への未練を捨てきれず、4回目の東京進出を果たします。

東京で、『東京栄養食糧専門学校』時代の友人の紹介で弁当屋の仕事に就くと、大繁盛で、独立の話が出ました。

そこで、母親を東京に呼び寄せて、愛媛の家を売ったお金で、埼玉県蕨市に自宅とその横に弁当屋『東栄給食センター』を開業すると、大繁盛します。

弁当屋は弟に任せ、儲けたお金で不動産業に参入すると、最初は全く売れずに倒産間近まで行きましたが、着物問屋の面接を紹介してくれた中学校の恩師に買ってもらえ、そこから東京オリンピックと不動産ブームで大成功しました。

普通なら、このまま不動産業を継続しますが、丹道夫さんは、ここで共同経営者との関係を解消し、同時に行っていた24時間営業の立ち食いそば屋『名代 富士そば』に専念して、一代で巨大チェーン店に成長させたのです。

成功の秘訣は、義父とは違い、人を信じて任せたからとのこと。

現在、代表取締役は息子の丹有樹さんが継ぎ、丹道夫さんは会長職に就いています。


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